東京女子医科大学名誉教授

メディカルクリニック柿の木坂院長

東京脳神経センター 神経内科

田 誠


 杉田玄白は外科医であったため、西洋医学の解剖学的観察の正確さに感激し、その事実を皆に知らせんがために『解軆新書』の出版を急いだのだが、前野良沢は内科医であったため、解剖学的な事実を広めることには、余り興味がなかったのではないかと言われている。このことが、良沢をして、未だ完璧な翻訳とは言い難い『解軆新書』の出版に際して自らの名前を出すことを辞退した理由の一つであろうと推察される。実際、西洋医学の優れた点を喧伝した玄白その人でさえ、患者の診察に際しては、腹診という伝統医学の診察法を重視しているし、また伝統医学における薬物治療を日常診療に使っていたことも明らかである。江戸の医者たちが日常診療で用いていた治療薬の起源は中国古来の伝統医学に由来するものであるが、わが国独自の工夫の末に生み出された治療法も多かった。そのような薬物治療を支えたのは、本草学と言われる学問体系である。本草学は、薬物として使用可能なものの博物学的探究の学問であり、その対象となるものには植物が多かったため、「草に本[もと]づく」という意味で本草学と呼ばれたというが、一~二世紀の後漢時代には、すでに『神農本草経』が書かれ、その後の中国において、薬物学として大きく発展した。古今の本草学の集大成とされているのは、十六世紀末の明時代に、李時珍によって著された『本草綱目』であり、そこには一千八百種以上の薬物についての記述があるという。


 これらの中国の本草学は、古くからわが国に伝えられ、利用されたことはもちろんであるが、中国で用いられていた薬種の中には、わが国では入手が困難なものも少なくなかったため、国産の薬物について調べたわが国固有の本草学が生まれてきた。江戸時代に入ると、本草学を含めた医学全体が、中国医学の直接的影響を脱して、独自の発展を遂げるようになり、貝原益軒の『大和本草』をはじめとして、多くの本草学書が出版された。これに加えて、将軍吉宗は、中国からの薬物の輸入によってわが国の金銀が大量に海外に流出するのを防ぐため、国産品での自給体制を整えようとして、積極的な物産政策を実施した。すなわち、全国に採薬使を派遣して国内各地の物産を調査、採集させ、また、海外産の薬種が日本にあるかどうかを調べさせて、日本にないものの移植を試みさせた。このような積極的な物産政策により、国内に自生しない植物であった朝鮮ニンジンやサトウキビは、長い年月をかけて、日本でも栽培可能になった。薬種ではないが、青木昆陽がサツマイモの栽培を命ぜられて、これを成功させたのも、野呂玄丈が幕命によって、ヤン・ヨンストン著述の『動物図説』や、ランベルス・ドドネウスの『草木誌』などの蘭語版原書を抄訳したのも、このような吉宗の物産政策の一環であった。


 この時代の本草学者として、最も大きな存在は小野蘭山である。本草学の本質は薬物学であったから、本草学者のほとんどは医師でもあったが、蘭山は医師ではない、純粋な本草学者である。彼は京都で生まれ育ち、丸太町に本草学の学塾衆芳軒[しゅうほうけん]を開いた。衆芳軒には全国から受講者が集まり、七十歳に至るまでに、その数は累計一千人を越えたという。彼は、薬になるならないを問わずに広く動植物を研究したため、単なる本草学者と言うよりは、博物学者と言った方がふさわしく、わが国における博物学の確立に大きく貢献した。蘭山は、仕官して行動を縛られるのを嫌い、学問一筋に行きたいと願っていたのであったが、七十一歳の時、幕府の命により江戸に呼ばれ、醫學館で本草学を教えることになった。また、幕命により、七十二歳を越える老体でありながら、往復数か月もかかる採薬旅行を何度か行っている。後に述べる多紀元簡の墓碑文に、「性最も強記にして、耳目を過ぐる所を終身忘れず」と書かれているように、記憶力抜群であったことで知られている。主著『本草綱目啓蒙』は、蘭山七十四歳の時に出版され、わが国の本格的な博物学の出発点となった。シーボルトは蘭山のことを、日本のリンネと呼んだという。蘭山は八十二歳で亡くなり、浅草誓願寺の迎接院[こうじょういん]に葬られたが、この寺は関東大震災時に罹災したため、練馬の豊島園前に移った。現在、ここには誓願寺に属する十一ヶ寺とその墓地が集まっており、蘭山の墓もここに在る。墓石には醫學館の長であった多紀元簡が草した、一千字に及ぶ墓碑銘が刻まれている(図1)。

                  

図1: 練馬の迎接院墓地にある小野蘭山の墓


 物産政策を重視した将軍吉宗は、将軍綱吉が設置した小石川御薬園を拡大して、ここで様々な薬草の栽培や、国外から持ち込んだ植物の移植を行わせ、本草学の実験場とした。今日では東京大学附属小石川植物園となっているこの小石川御薬園内に、享保七年(一七二二年)小石川養生所が設置された。それは、吉宗が設置した目安箱に投じられた一通の意見書によるものであった。それは、小石川伝通院の町医者小川笙船[しょうせん]によって書かれたものであり、貧民救済のための無料の医療施設の設置を求める内容であった。これを見た吉宗は、江戸町奉行大岡忠相[ただすけ]に命じて、小石川御薬園内に養生所を設置させ、四十名の病者を収容できるようにした。そして、肝煎役に命じた笙船をはじめとする七名の本道医〈内科医〉に、医療を行わせることとした。しかし、養生所が御薬園内に設置されたことから、庶民の間では、薬草の実験台にされるという噂が広まり、当初は入所者が少なかったという。このため、大岡忠相は、江戸の町名主たちを養生所に呼び出し、施設や医療の見学を行わせた。このもくろみにより、入所希望者は増加していき、入所希望者を全部収容できないほどになったと言う。享保七年の開所から安政六年(一八五九年)に至る百三十七年間の全入所者数は、累計三万二千人以上であり、そのうち一万六千人が全快退所とされているので、かなりの治療実績があった医療施設であった。


 山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』は、この小石川養生所を舞台としている。いやいやながらここに派遣されてきた、長崎帰りの青年医師、保本[やすもと]登は、養生所の医師、赤ひげ、こと新出去定[にいできょじょう]の下で働くうち、この養生所で働き続けることを決心する。一般には、赤ひげのモデルは小川笙船だと思われているが、笙船は江戸に蘭学が芽生えるより前に生きた人物であり、『解軆新書』が世に出た時には、既に世を去っていた。『赤ひげ診療譚』では、去定が登に「これは、大機里爾[タイキリイル]、つまり膵臓に初発した癌腫だ」と説明するところがあるが、大機里爾という語は、玄白が『解軆新書』で使った造語であり、膵臓は、その弟子宇田川元真による造語である。漢方医学では、膵臓の存在は知られていなかったため、蘭学者たちがこれらの語を作り出した。今日、膵臓という語は中国語としても使われているが、この語はわが国から逆輸入されたものである。膵と言う語が初めて使われた元真の著書『醫範提綱』の出版は文化二年(一八〇五年)であるから、新出去定と保本登が働いていたのは、それより後の時代の話ということになるし、『赤ひげ診療譚』では、養生所の番医の定員は五名で、内科医、外科医、婦人科医から成ると書かれているので、これは天保十四年(一八四三年)に行われた養生所の制度改革以後の話である。小説の中に史実を求めることに意味はないが、小川笙船という実在の人物を、小説の中の赤ひげ先生と同一視するのはいかがなものかと思い、老婆心ながら、ここに付け加えておく次第である。


 東京大学附属小石川植物園の園内のほぼ中央には、小石川養生所の井戸が、今でも残っている(図2)。そこからほど遠くないところには、甘藷の実験栽培をした試作地を示す碑があるが、甘藷を思わせる赤みがかった巨石が置かれているだけで、昆陽先生の名前は記されていない。

       

図2:小石川植物園内に残る小石川養生所の井戸