東京女子医科大学名誉教授

メディカルクリニック柿の木坂院長

田 誠


 杉田玄白は、若狭小浜藩の藩医杉田甫仙の子として、小浜藩主酒井家の上屋敷があった牛込矢来、すなわち現在の新宿区矢来町で生まれた。矢来町の名前の由来は、小浜藩邸が、竹矢来で囲まれていたからであるという。玄白の生母は、難産の末、お産の直後に亡くなってしまった。このため、周りにいた人々は、彼女を救うことに一生懸命になって、生まれた子のほうは、どうせ助かるまいと布にくるんで放っておいた。しばらくして、もう死んでしまっているに違いないと放置しておいた赤ん坊が、まだ生きていることに気づいた人々が、慌てて抱き上げたという。このことは、単に、放置されていた赤ん坊が助かったという家庭内の幸せな一事件だったというだけでなく、日本の医学の進歩にとっての大いなる僥倖であったと言えよう。この時、母の死という悲しい運命と引き換えに私たちに与えられた小さな命が、後の日本の医学を根本的に塗り替えたのである。現在の新宿区矢来町は、出版社である新潮社の前の通りから西側が一段低くなっている。その急な坂道を下っていくと、矢来公園という小さな公園があり、その片隅に、玄白の生まれた小浜藩邸がこのあたりにあったと記された碑が立っている(図1)。小浜藩医とは言うものの、玄白自身は、幼い頃、父に連れられて小浜に行ったことがあったようだが、その生涯のほとんどを江戸で過ごした人であり、小浜出身者ではない。しかし、筆者の父方祖母が小浜の出身であり、その父、すなわちわが曽祖父が小浜藩士だったということから、玄白には、個人的に以前からなんとなく親近感を抱いてきた。


図1:矢来公園にある小浜藩邸跡の碑


 玄白の父甫仙は、オランダ流外科を学んだ医師であったというが、当時オランダ外科と言われたものは、オランダの外科学を学問や技術として直接学んだものというわけではなく、長崎の出島にあったオランダ商館で通詞をしていた人々が、オランダ人医師が行う外傷や骨折の治療法を見たり聞いたりして、これを真似して始めたものであった。こうした通詞たちは医師になって、楢林流外科や、西流外科、吉田流外科といったオランダ外科の流派を作ったのである。玄白の父甫仙は、西流オランダ外科を学んでいた。西流の元祖は、西吉兵衛という長崎の通詞であり、出島で通訳をしているうちに見よう見まねで、オランダ人医師の外科技術を覚え、西玄甫という名前で、西流外科を始めた。玄白は、17歳の時、西流オランダ外科を本格的に学びたいとの意思を父に告げ、西流外科第三代で、幕府の医官であった西玄哲に弟子入りした。元哲は、当時高輪の二本榎( 赤穂四十七士の墓所として有名な泉岳寺の近く) に住んでいたので、玄白は矢来町から高輪二本榎まで、直線距離にして約2 里の道を、毎日通って勉強に励んだ。これより前、まだ子供の頃から、甫仙は息子玄白を、本郷切通に住む儒学者宮瀬竜門に弟子入りさせた。竜門は荻生徂徠の流れを引く復古派、すなわち空論を排して実際のことを重視することを唱えた学者であったため、少年玄白にも、その精神は十分に伝えられたものと思われる。このことが、玄白に科学する心を育ませ、西洋医学の精神への共感を生み、そして『解體新書』の出版という大事業を完成させるに至った原動力の一つとなったであろうことは、疑いないと思われる。


 成人した玄白は、1 7 5 6 年、25歳の時に父から独立して外科を開業することになり、牛込矢来を出て日本橋通り四丁目に住むようになった。現在の日本橋高島屋の少し南側の辺りである。しかし大火の多かった江戸の町で玄白も度々火事にあったらしく、その後も、箔屋町( 日本橋高島屋付近)、堀留(現在も日本橋堀留町として名前を留めている) と、日本橋界隈で度々住居を変わっている。この間、彼は開業医としての仕事を続けながら、元哲から学んだオランダ外科の源流である西洋医学への興味を深めていった。前回述べたように、西善三郎に諭されてオランダ語の習得を諦めた玄白ではあったが、その2 年後、オランダ商館長の江戸参府があると、再びその宿舎を訪れ、通詞吉雄幸左衛門( 耕牛) からオランダ外科の教えを受けたり、オランダ人医師の瀉血を見学したりした。この時、耕牛はハイステル(Lorenz Heister) というドイツ人の書いた外科書を、玄白に見せてくれた。そこに書かれている文字は一つも読めなかった玄白は、せめて図だけでも写しておこうと、耕牛からこの書物を借り受け、耕牛の江戸滞在中に返さねばと、徹夜を重ねて全ての図を写し取ったという。丁度この頃父甫仙が79歳で亡くなり、父の跡を継いで小浜藩侍医となった37歳の玄白は、新大橋の酒井邸に住むことになった。この屋敷は、現在の浜町にあった。


 このようにして、西洋医学を学ぶことへの情熱を既に十分高めていた玄白であったからこそ、骨ケ原の腑分けを見学して、西洋医学の解剖学的記載が、人体の実景にいかに忠実であるかということを、実感したのである。山脇東洋以来、腑分けを見学した医師たちは少なくなかったし、そこで見た人体の内景が、自分たちが信じてきた中国医学の五臓六腑説と異なっていることに気づいたものも多かった。初めて腑分けを見学した山脇東洋も、腑分け見学の報告書である『臓志』において、五臓六腑説の誤謬を指摘し、実際のものを見なければ真実のことは分からないと述べている。しかし、西洋医学における解剖学が、既にそれを見事に成し遂げていたことに、日本人として初めて気づいたのは、この日に腑分けを見学した玄白たちであった。このことに衝撃を受けた玄白は、腑分けの終わった刑場から、前野良沢、中川淳庵と三人で帰途についた。おそらく、三谷口まで再び戻って行ったのであろう。その時のことを、玄白は『蘭学事始』で、こう書き残している。


 “ 途中にて語り合ひしは、さてさて今日の実験、一々驚き入る。且つこれまで心付かざるは恥づべきことなり。苟くも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふる身にして、その術の基本とすべき吾人の形態の真形をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来りしは面目もなき次第なり。なにとぞ、この実験に本づき、大凡にも身体の真理を弁へて医をなさば、この業を以て天地間に身を立つるの申訳もあるべしと、共々嘆息せり。” これには、良沢等も、全く同感であった。玄白は更に言った。何とかしてこの『ターへル・アナトミア』を日本語に翻訳できれば、大変役に立つのではないだろうか? これに対し、良沢が直ちに反応した。“予は年来蘭書読み出したきの宿願あれど、これに志を同じうするの良友なし。常々これを慨き思ふのみにて日を送れり。各々がたいよいよこれを欲し給はば、われ前の年長崎へもゆき、蘭語も少々は記憶し居れり。それを種としてともども読みかゝるべしや”という良沢の言葉に対し、玄白も、“それは先づ喜ばしきことなり、同志にて力を戮せ給はらば、憤然として志を立て一精出し見申さん”と答えた。



図2: 78 歳時の玄白の肖像 石川大浪・筆

   (1810年に出版された『形影夜話』の巻頭に掲げられたもの)


 これに喜んだ良沢は、“然らば善はいそげといへる俗諺もあり、直に明日私宅に会し給へかし”と答えた。その言葉通りその翌日から、玄白と淳庵が良沢邸に集まり、三人で翻訳事業を開始した。こうして1771年3月5日から始まった彼らの翻訳事業がいかに大変なものであったかは、後に詳しく述べることにしたいが、骨が原の刑場をあとにした、未だ興奮冷めやらぬ彼ら三人が、熱っぽく語り合いながら三谷口まで帰ってくる姿を思い浮かべると、学問的真実を求めるために勇気を奮って立ち上がらんとする、江戸の医師たちの真剣さが伝わってくる。きっと、三人とも、その夜はほとんど眠れないほど興奮していたのではなかっただろうか。