東京女子医科大学名誉教授

メディカルクリニック柿の木坂院長

東京脳神経センター 神経内科

田 誠


 お玉が池種痘所の開設にあたっては、医師たちを、蔭で支えた人々がいた。その中の一人は、幕府勘定奉行川路聖謨[としあきら]である。御家人株を買って幕臣となった父と江戸に出て、下級幕吏となった彼は、その能力を認められて旗本となり、嘉永五年(一八五二年)には勘定奉行となった。翌年には、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉役を命じられ、安政元年(一八五四年)に、下田で日露和親条約に調印した。このように、外国文化を理解し、開国に積極的であった川路は、種痘所開設の意義をよく理解し、自らの拝領屋敷内に、種痘所を開設することを、老中堀田正睦に願い出てくれたのである。しかし彼は、安政五年(一八五八年)に井伊直弼[なおすけ]が大老に就任すると左遷され、政治の表舞台からは姿を消した。彼の助力によって認められたお玉が池種痘所開所の前日、五月六日のことであった。その後の彼は、脳卒中によって半身不随となり、慶應四年(一八六八年)三月十五日、新政府軍による江戸総攻撃の予定日に、割腹した上、ピストルで喉を打ち抜いて自害した。滅びゆく幕府に殉じたと言われている。聖謨の墓は、東京大学裏、池之端の大正寺(台東区池之端二丁目一番二十一号)にある(図1)。



図1: 大正寺にある川路聖謨の墓


 先に述べたように、お玉が池種痘所の開設にあたっては、江戸とその近隣の医師八十三名が醵金をしたが、それに加えて資金援助をしてくれた人物として、日本橋堀留町の蘭方薬種商、神崎屋 斎藤源蔵を忘れることは出来ない。初代神崎屋源蔵は、奥州水沢の出身であり、同郷の高野長英や大槻俊斎を経済的に援助した人物であった。種痘所開設の相談に加わったのは、その跡を継いだ二代目源蔵である。彼もまた、蘭方医学興隆に尽くした人物であり、種痘所開設にあたっては、財政的な援助を惜しまなかったという。


 お玉が池種痘所開所から二か月後、将軍家定が病の床に臥した。脚気衝心、すなわち心臓脚気である。漢方医である奥医師たちの努力にもかかわらず、将軍の病状は悪化する一方であったため、大老井伊直弼はオランダ医学の禁令を解き、七月三日に、種痘所開設の中心となって活躍した蘭方医、伊東玄朴と戸塚静海の二名を奥医師に任命した。将軍家定はその四日後の七月七日に死去してしまうが、嘉永二年以後九年間にわたるオランダ医学禁止令が解除されたことの意義は大変に大きかった。


 このように、蘭方医たちの努力がようやく実ったのも束の間、お玉が池種痘所は、開所からわずか半年後の十一月十五日、神田相生町に発した火事のために焼け落ちてしまう。しかし、種痘業務は先述のように駅伝リレーのごとく痘苗を受け継いでいかねばならないため、大槻俊斎と伊東玄朴の自宅を仮種痘所として業務を続けた。彼らは早速種痘所再建に乗り出したが、この時、すでに失脚していた川路聖謨の拝領地は幕府に返却されていたため、元の地に種痘所を再建することは出来なかった。このため、伊東玄朴邸の東南にあたる、下谷和泉橋通の、山本嘉兵衛および安井甚左衛門屋敷の地所を借りて、種痘所を再建することになった。そして、お玉が池種痘所焼失から九ヶ月を経た安政六年(一八五九年)九月、新しい種痘所が竣工した。


 種痘所再建にあたっては、銚子のヤマサ醤油七代目である浜口梧陵[ごりょう]の経済的援助が大きかった。和歌山県出身の浜口は、安政元年(一八五四年)に和歌山地方を襲った大地震後の津波に際して、村人を避難誘導させた「稲むらの火」のモデルとして有名であるが、若いころから蘭方医の三宅艮斎[こんさい]と親しく、彼を通じてオランダ医学に関心を寄せていた。この縁で、先にお玉が池種痘所の発起人八十三名にも名を連ねていた三宅艮斎は、親しかった浜口に、種痘所再建への援助を頼んだ。浜口の援助がなければ、種痘所再建がかくも迅速に進められることはなかったと思われる。先に述べた斎藤源蔵、そしてこの浜口梧陵という二人の民間人が、わが国における西洋医学の発展に大きく貢献したことは、万人の記憶に留めておくべきである。彼らは、自らの得た富を、いかにして社会に有効還元するかを真剣に考えていた人々であり、利潤追求をひたすら追い求めるだけの人物ではなかった。このような真の実業家たちの協力がなければ、わが国の医学は、今とは違った道筋を辿っていたかもしれない。


 お玉が池に始まり、和泉橋通に移転した種痘所を支えた中心的存在は、佐賀出身の伊藤玄朴である。漢方医として開業していた玄朴は、蘭方医学に転じ、長崎に出てオランダ通詞の猪股伝次右衛門の学僕としてオランダ語を学び、来日したシーボルトが鳴滝塾を開くと、その通学生としてシーボルトの教えを受けた。その数年後、オランダ語の師匠である猪股伝次右衛門が江戸に赴くことになり、玄朴はこれに従ったが、伝次右衛門は旅の途中、沼津で客死する。後事を託された玄朴は江戸に上って開業し、伝次右衛門の娘照と結婚した。その後、蘭方医としての名声が高まった玄朴は、三十一歳にして佐賀藩鍋島家に召し抱えられることとなり、下谷和泉橋通御徒町に広大な屋敷を構え、そこに蘭学塾象先堂を開いた。玄朴は、師のシーボルトから牛痘の有効性と安全性を聞いていたため、楢林宗建が牛痘接種に成功すると、佐賀藩主鍋島直正に建言してさっそく痘痂を取り寄せ、藩主の娘貢[みつ]姫にこれを接種して成功した。玄朴邸は、和泉橋通種痘所に隣り合う地にあった。台東区台東一丁目一番には、その旧邸跡を示す表示板が立っている(図2)。


図2: 伊東玄朴邸の跡を示す表示板


 玄朴は、実に機を見るに敏の人物であった。お玉が池種痘所開設にあたって、勘定奉行であった川路聖謨との交渉を川路と親しかった箕作阮甫に託したり、和泉橋通種痘所の復興にあたっては、三宅艮斎を通じて浜口梧陵の援助を仰いだりしたのは、おそらく玄朴の戦略によるところが大きかったのであろう。その一面、玄朴の打算的な一面を批判する声もあった。江戸に出た玄朴も、開業した当初は患者が集まらず苦労したというが、一計を案じた玄朴は、毎晩自分自身で近所を廻って家々を叩き起し、「この辺に伊東玄朴というお医者はおられませぬか。どうかお教え下さい」と訊ね歩いたという。毎晩のように叩き起された人々は、伊東玄朴という医者はそんなに偉い医者なのかと噂し、これによって玄朴の名が広まったという真偽のほども定かでない話が伝えられている。それだけでなく、後に種痘所の頭取となる緒方洪庵や、松本良順も、玄朴のことは嫌っており、良順に至っては、「利を先んじ、医を之に亜ぐと云う方であった」とまで言い、「将軍に親愛され、江戸の流行家にして、上中官権諸有司、大抵玄朴の病家にて其材に長ずる、その胆力の強き、然れども、私多く、好んで小人と親しみ、その為す所大抵私利に出でざるはなく…」と、手厳しく批判している。


 しかし一方、玄朴は常に新しい医学技術を取り入れることに熱心であり、クロロフォルム麻酔による足切断手術を行った。これはわが国におけるクロロフォルム麻酔手術の第一号と言われている。後の明治政府において、医療政策の要となった石黒忠悳[ただのり]は、わが国における西洋医学の発展に貢献した第一の功労者として、伊東玄朴の名を挙げている。しかしその石黒でさえも、「この人は肥前佐賀の出生で、幕府奥医師となり、法印に叙し、伊東長春院と号し、江戸における洋医の大家でありましたが、学者よりも事業家であります」と述べている。批評する人物の立場によってその評価は大きく変わるところではあるが、わが国の医学の主流が西洋医学になっていく過程において、伊東玄朴の果たした役割が決定的に大きかったことは、何人も否定できるものではない。彼の存在がなければ、西洋医学のわが国の社会への浸透は、もっと遅れたであろう。玄朴は明治四年(一八七一年)に七二歳で亡くなり、谷中の天竜院に葬られた。