東京女子医科大学名誉教授

メディカルクリニック柿の木坂院長

東京脳神経センター 神経内科

田 誠


 『解軆新書』出版を契機として、蘭学は大きく発展していくが、その過程において極めて大きな役割を演じたのは、大槻玄沢と宇田川玄真である。杉田玄白が『解軆新書』の出版に携わっていた頃、岩手一関の医師建部[たけべ]清庵は、西洋医学についての自らの疑問を記した書状を、弟子の衣関[きぬどめ]伯竜に託し、江戸にはこれらの疑問に答えてくれる人物が居るだろうから、その人物にこの書状を渡すようにと依頼する。この書状は、紆余曲折を経た後、書かれてから約二年半後の一七七二年の末になって、杉田玄白の手に渡された。この書状に驚いた玄白は、早速清庵に返事を書いた。その返事に感激した清庵は、更に自らの新たな質問を玄白に書き送り、玄白は再びこれに答えた。この二人の往復書簡は、玄白の嗣子伯元によって『和蘭醫事問答』としてまとめられており、『解軆新書』出版当時の事情が、生々しく語られている。その後、清庵は、自らの五男由甫を玄白の下に送って弟子入りさせたが、彼は後に請われて玄白の婿養子となり、杉田伯元として玄白の後を継いだ。清庵は、もう一人、自分の愛弟子であった大槻茂質[しげかた]をも玄白に弟子入りさせた。これが、後の大槻玄沢である。江戸に出た玄沢は、山伏井戸の玄白邸に、内弟子として住み着いた。玄沢は、その後一時帰国を挟んで約五年間にわたり江戸に止まって、玄白からは医学を、そして前野良沢からは和蘭語を学んだ。玄沢の名は、玄白と良沢、両師の名をとったという説があるが、緒方富雄によればこれは間違いで、玄白に弟子入りした翌年、玄白の勧めに従って、故郷の黒沢という町名にちなんでつけられたという。また、玄沢は磐水[ばんすい]と号したが、これは故郷を流れる磐井川にちなんだという。


 この頃の玄沢は、一関藩田村候の家臣として江戸藩邸に住んでいたが、ここは、かつて、江戸城松の御廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭が切腹した、田村右京太夫邸である。玄沢は事件の13年後に、ここに住むことになった。その後、玄沢は半年ほどの間長崎に留学した。江戸帰藩後、一関藩の本藩である仙台藩に貰い受けられたが、藩邸外居住を許されたため、三十間掘沿いの、京橋一丁目、本材木町、三十間掘四丁目、そして京橋水谷町に、転々と居を替えながら住んだ。三十間掘は、今では完全に埋め立てられて跡影もないが、その名のごとく幅が三十間もあった大きな水路であり、現在の首都高速道路の新橋出口と東銀座出口の、丁度銀座一丁目から八丁目まで、南北に延びて、物流に大きく貢献した。しかし、太平洋戦争で破壊しつくされた東京下町の瓦礫処理のために埋め立てられ、埋め立てた土地は東京都がこれを売って復興予算に組み込んだという。今日でも、高速道路新橋出口付近には、三十間堀の由来を示す立札と、組石の一部が残されている(図1)。

          

図1: 銀座八丁目に残る三十間堀の石組み

 

 また、三十間堀の南北の中間点には、明治年間、三原橋と呼ばれた橋が架けられたが、堀が埋められた後、この橋の下にあたるところに、地下街が作られた。その地下街にあった映画館銀座シネパトスには筆者もたびたび通ったものだが、近年の再開発により、映画館もろとも、その地下街も消滅してしまった。玄沢が三十間堀沿いに住むことに拘ったのは、その南端、汐留橋を渡った先、現在は日テレタワーの立つ所に、仙台藩上屋敷、すなわち彼の正式な勤務先があったためであろう。藩邸に赴く玄沢は、今日のタクシーと同じような感覚で、自宅の前から緒牙舟[ちょきぶね]に乗り、運河伝いに藩邸の船着き場まで行ったのではなかろうか。


 仙台藩に勤めるようになった玄沢は、私邸に芝蘭[しらん]堂という蘭学塾を開き、弟子を育てた。師玄白は、玄沢の能力を非常に高く評価していたため、自らその翻訳が不十分なことに気付いていた『解軆新書』の改訳を彼に依頼した。そのような師命に応えて、師の『解軆新書』出版から五十二年後に出来上がったのが、『重訂解軆新書』である。玄沢はまた、玄白に頼まれてハイステルの外科教科書の翻訳も行い『瘍醫新書』として出版した。この本は、かつて玄白が江戸に来た通詞吉雄耕牛から借りて、せめて図だけでもと懸命に写した書物である。玄沢の著書として、もう一つ忘れてはならないものに、『蘭学階梯』がある。これは、オランダ語とはどんな言葉なのか、これを学ぶことによってどのような効用があるのかを簡単に示したものであり、この本によって蘭学に志すようになった若者は、大変に多かったと言われている。


 玄沢の弟子の中で特筆すべきは、宇田川玄真、号して榛斎である。彼は、元々は安岡姓であり、生まれは京都だが、伊勢の人であるという。若くして江戸に出、はじめ津山藩医であった宇田川玄随の門に入るが、弟子の能力を見抜いた玄随は、彼を大槻玄沢に紹介して、芝蘭堂において蘭学を学ばせる。江戸に身寄りのない玄真は、桂川甫周宅に寄食するなどして、玄沢の下で必死に蘭学を学んだ。この努力が実り、師玄沢の推挙を受けて、玄真は杉田玄白の養子となった。玄白は、彼をゆくゆくは次女八曾[やそ]と結婚させるつもりであったのだが、若い玄真の不身持のため、離縁してしまう。杉田家から追い出された逆境の玄真を助けてくれたのは、芝蘭堂のクラスメートたちであった。そのうち、玄真の最初の師匠であった宇田川玄随が、嗣子なくして亡くなってしまった。その時、再び玄真のために動いてくれたのも、芝蘭堂のクラスメートたちであった。彼らは、宇田川家の親戚や、亡くなった玄随の友人、あるいは門人を説得して、玄真を玄随の後継者として正式に認めさせ、ここに津山藩医、宇田川玄真が誕生することになったのである。


 宇田川玄真には、数々の業績があるが、一八〇五年(文化二年)に出版された彼の著書『医範提綱』は、西洋医学の教科書として広く読まれた。その書の中で、彼は"腺"と"膵"という和製漢字を創作した。杉田玄白たちが世に出した『解軆新書』では、膵臓や腺を適切に訳すことが出来ず、"腺"のことは"機里爾[キリイル]”、"膵"のことは"大機里爾"と直訳したが、これが不十分な訳であったことは、玄白自身も認めていた。『解軆新書』の出版から三十年ほど経って出版された『医範提綱』において、玄真は、これらの臓器に対し、中国には全く存在していなかった和製漢字、すなわち国字として、"膵"と"腺"を創作した。大先輩の玄白らが作った"神経"と共に、今日の中国でも使われているこれらの解剖学用語は、日本から逆輸入された漢語なのである。


 玄真の師であり養父ともなった宇田川玄随は、ヨハネス・デ・ゴルテルの著した簡約内科書を、一八一〇年(文化七年)に『西説内科撰要』として訳出した。これは、西洋の内科学を日本に紹介した書物であったが、訳としては不完全なものであったので、彼の後継ぎとなった玄真が、原書の増補新版を『増補重訂内科撰要』として訳出しなおした。一八二二年(文政五年)のことである。これによって、西洋医学としての内科学が、全国的に広まった。


 藩医となった玄真は、津山藩の藩邸内に住むことになった。この藩邸は、江戸城の内堀の東側に架かる鍛冶橋を渡ったところに立つ、鍛冶橋御門から江戸城の曲輪[くるわ]内に入ったすぐ北側にあった。今日でも、鍛冶橋のあった場所は、交差点の名前として残っているが(図2)、もちろん堀は跡形もなく埋められており、江戸の昔を偲ぶ縁もない。今では東京駅のJR各線のホームとなっているところが、かつての津山藩邸のあったところと思われる。
  

          

図2: 鍛冶橋の跡を示す立札


 玄沢、玄真という、わが国における西洋医学の普及に尽くした二人の巨人たちの活躍の場は、花のお江戸の真只中だった。平和で豊かだった江戸時代であったからこそ、西洋医学は、かくも速やかに広まっていくことが出来たのである。